共通項は”台湾軽視”・・・ shiho

岩崎昶は1935年に上海に行き、映画館で「漁光曲」(蔡楚生監督)という映画を見た。貧しい漁民の生活がリアルに描かれていた。岩崎は帰国すると日本の映画雑誌にこの映画のことを書き、絶賛した。岩崎は当時の中国映画を評価していて、岩崎の映画批評を魯迅が読んでいたというのも有名な話だ。


その同じ岩崎が、1927年に台湾を舞台にした日活映画「阿里山の侠児」のストーリーを書いている。これは、当時日本人が「生蕃」と呼び差別的な扱いをしていた少数民族を、侮蔑的に描いたひどい作品だ。
岩崎昶は、1935年にも台湾を訪れ、帰国後「台湾紀行」を「キネマ旬報」に書いている。岩崎は中国にはあれほど肩入れしていたが、植民地・台湾を見る目は当時の世間とほとんど変わらない。つい数年前に起きた残虐な霧社事件などまるで知らぬげに、「驚くべき原始的な民族美」などと書いている。


その岩崎だからこそ平気で「サヨンの鐘」の前宣伝などにも行けたわけだ。もちろんこのころは、台湾では新聞に弾圧が及び、岩崎が相手にしたのは日本人の新聞の日本人の記者だけだった。


山口淑子は、戦後になって初めて中国を再訪したときのことをよく語っている。
李香蘭という「売国奴」として活躍した中国で、再び受け入れてもらえるよう、彼女はさまざまに心を砕いたことだろう。「李香蘭 私の半生」に、台湾巡業や「サヨンの鐘」のことはもちろん、劉吶鴎のことにも一切触れなかったのも、中国に気兼ねしたことが一因であることは否定できないだろう。


こうなると、「劉吶鴎が暗殺されたときに、彼と待ち合わせて彼を待っていた」という山口淑子の(ウソっぽい?)告白のタイミングにも納得がいく。中国もこのときには、劉吶鴎を話題にすることがタブーではなくなっていた。そして日本では、この事件の関係者が皆亡くなっていた!!


しかし、だからこそ言いたいのだ。人ひとりの命が、どんなふうに失われたのかを知りたい人の気持ちが、あなたは分からないのですか?
戦争中にしたことを悔いる気持ちがあるのなら、せめてその罪滅ぼしの一端として、もう少し詳しく劉吶鴎を待っていたときの状況を語るべきではありませんか?
中国におもねるあまり、台湾人を軽視してはいませんか?