李香蘭と岩崎昶・・・ honda

李香蘭が1943年に「サヨンの鐘」のロケのために台湾を訪れたとき、彼女のマネージャー役兼ラインプロデューサー役をしていたのは岩崎昶だ。
岩崎昶は左翼的な思想をもった映画評論家で、「映画法」に反対したため治安維持法によって逮捕され、1年ほど獄中体験もしている。
だがその後、満州映画協会東京支社の嘱託となり、43年頃は絶頂期のスター李香蘭と何かと関わりができたようだ。


満映理事長・甘粕正彦の鶴の一声で、李香蘭を無理矢理「萬世流芳」に出演させることが決まったときも、李香蘭に同行して上海に行ったのは岩崎昶だ。
「サヨンの鐘」が、松竹・満映台湾総督府の合作と決まり、主演に李香蘭を送り込むことになったときも、岩崎昶はロケに先立って台湾に行き、記者会見を開いて「サヨンの鐘」の宣伝活動を行った。


私は実は、40年も前の大学時代に、岩崎昶の映画史を受講したことがある。
左翼映画評論家らしく、「戦艦ポチョムキン」について熱を込めて語ってくれたことを覚えている。
ある時私は、岩崎昶を授業のあとでつかまえて、満映との関わりについて釈明を求めた。
岩崎昶が映画史の上でもいくつかの評価できる業績をもっているからこそ、あの時点で彼が満映で働き、李香蘭の手助けなどして「サヨンの鐘」出演の後押しをしたことなどをどう総括しているか、聞きたかったのだ。


岩崎昶の態度は誠実だった。何も語りたくないと言った。あのときは満映は禄を食む手段と思って就職したが、しだいに麻痺したように無批判になっていった。「サヨンの鐘」も「萬世流芳」も「私の鶯」も見たくはない。とくに「サヨンの鐘」などは、封印してしまいたいくらい恥ずかしい、と。
言葉少なにそう語る岩崎先生を前に、当時生意気な左翼学生だった私も、口をつぐむしかなかった。


山口淑子の自伝によれば、終戦後に山口淑子が上海から日本の帰ったとき、岩崎昶は彼女の住まいを用意して待っていたという。
岩崎先生は、李香蘭に関する見解も語ってくれたし、43年頃の李香蘭の状況も語ってくれた。だがここでは今は触れない。


ただ思うのは、山口淑子に岩崎昶のような誠実さがあるのなら、劉吶鴎の暗殺時の出来事は、もっと早く語られたはずではないだろうか。