李香蘭と高砂義勇隊・・・ ken

台湾で「李香蘭的戀人」が話題になっているのは、僕も知っている。
この本がきっかけになって、意義のある議論も展開されているようだ。


李香蘭が劉吶鴎の墓参りのために劉家を訪れたとき、邸宅の前で劉家の一同とともに撮った写真は、台湾では、1943年に撮られたという間違った記述が横行していたそうだ。それが「李香蘭の恋人」(田村志津枝著)ではっきりと、1941年に撮られたものと、訂正がされた。


劉家の資料を優先的に見せてもらえる立場にいた台湾の研究者たちが、「李香蘭の恋人」が出るまで、これくらいの間違いに気づかなかったとは呆れる。
しかし写真の、1941年撮影説と1943年撮影説をめぐる議論のなかで、李香蘭が台湾で果たした役割のひとつが明らかにされた。


写真が撮られたのが1943年だという間違った見解が流布した理由は、李香蘭が1943年にも台湾に行っているせいだ。
映画「サヨンの鐘」の撮影のために行ったのだ。
そこで、41年と43年の世相の違いを、年配の人が説明することになった。


1941年1月、実際に李香蘭が劉吶鴎の実家を訪れたときは、台湾の世相はまだまだ穏やかだった。
しかしその年の12月には太平洋戦争が始まった。
1943年、李香蘭がふたたび台湾を訪れた頃は、日本人はいざ知らず、台湾人は戦々恐々とした日々だった。


日中戦争の戦場に、台湾人を日本人兵士として狩り出すことは躊躇していた台湾総督府は、太平洋戦争には台湾人兵士を狩り出し始めた。
とくに当時高砂族と呼ばれた先住少数民族は、高砂義勇隊の名を付けられて、その山地での適応能力を見込まれて、南の危険な激戦地に続々と送られた。
李香蘭主演の「サヨンの鐘」は、まさに高砂義勇隊に身を投じることを奨励するために作られた映画だ。


43年44年あたりといえば、当時青年だった台湾人には、恐怖の時代だった。
日頃からあからさまな差別を受けてきたのに、いまさら日本人として死ねと言うのか、と内心では怒りに燃えていたという。


そんな時期に、李香蘭が台湾人の墓参りにわざわざ田舎町まで足をのばした? あり得ない!!
そう言ったのは、僕の義兄(台湾人)の父上だ。


山口淑子は「支那の夜」に出演したことを後悔し、謝ったと、彼女を擁護する人がいる。
じゃ、「サヨンの鐘」は? 高砂義勇隊を称揚したことは? 高砂義勇隊員の死亡率は非常に高い。
李香蘭を、まだ許せない人がいても、それは当然のことのような気がする。

李香蘭的戀人・・・ huang

台湾でも、「李香蘭的戀人」が話題になっているようだ。
探してみたら、いくつかのブログがみつかった。


けれど、ちゃんと読んでいるのかしら、と思われるような誤解も目につく。
なかでも、重要なのを取り上げたい。


著者の田村志津枝さんが、山口淑子さんに会うこともなく彼女宛の書簡を公表した、と批判している人がいる。
これは本をきちんと読めば分かることだ。
田村さんは手紙を出したが返事ももらえず、会う承諾ももらえなかったため、あえて手紙を公表したのだ。


最初から丁寧に読んでいけば、山口淑子さんが、劉吶鴎についての談話も、相手により場合により変えているのが分かる。
彼女の態度で、一番納得がいかないのは次の点だ。
それは、劉吶鴎の暗殺当時をよく知っている人が亡くなってから、暗殺時に彼と会う約束があって彼を待っていたという重要な話をしていることだ。
せめて劉吶鴎が属していた中華電影公司の代表だった川喜多長政氏の存命中に、この話をして欲しかった。
川喜多氏は、李香蘭の庇護者でもあり、山口淑子は彼をパパと呼ぶほど慕っていたのだそうだから。


そういうことをしなかったことがそもそも、山口淑子が無意識のうちにも劉吶鴎を軽視していたと思えて仕方がないのだが。

劉吶鴎と江文也・・・ huang

江文也という作曲家で声楽家だった人のことは、日本ではあまり知られていない。
台湾出身で、中学時代から日本で学び、大学は理工系だったものの、結局好きだった音楽を生涯の仕事とした。
戦争中には華やかな活躍を見せた。山田耕筰を追うほどの勢いで作曲をし、しかも自ら歌もうたったのだから。
戦後は日本から派遣されていた北京にそのまま残った。そのため、日本でも出身地の台湾でも、忘れられた存在になった。


彼の若き日の著作『上代支那正楽考』が、このたび平凡社から出版された。
出版のいきさつは知らないが、遅すぎたとはいえ、日本でも読まれるべき論考だと思う。


ところで、江文也についての忘れがたい描写が『李香蘭の恋人 キネマと戦争』(田村志津枝著 筑摩書房)のなかにある。
劉吶鴎が暗殺された1940年9月の初め、江文也は映画音楽の作曲のために、上海にいた。
彼に作曲を依頼したのは、その映画のプロデューサー劉吶鴎だった。


劉吶鴎が殺される2日前、東宝のプロデューサー松崎啓次は、10日ほどの東京滞在を引き上げて上海に戻った。
劉吶鴎と松崎は、当時上海にあった日本の国策映画会社・中華電影公司製作部に所属していた。
東京から帰った松崎の家で、その日の晩餐をともにしたのが、劉吶鴎と江文也だった。


そのときの3人の語らいの様子が、『李香蘭の恋人』に味わい深く記されている。
3人は、思い思いに胸の内を語った。
いったい日本人が、上海で映画を作ることなどできるのか。
日本人はいざとなれば帰る場所がある。しかし上海で日本人と一緒に仕事をしている台湾人は、台湾に帰っても植民地人としての日々が待っているのみだ。
それぞれ鬱屈を抱えながらも、3人はそれぞれに思いやりを持って夜更けまで語り合ったようだ。
松崎の回想記をベースにしたこの部分の記述は、同書の中でも感動を呼ぶ箇所のひとつだ。


その2日後。劉吶鴎が暗殺されたとき、李香蘭は彼との待ち合わせのために、事件現場から2キロしか離れていないホテルで彼を待っていたーーーと山口淑子は語っている。
彼女の話が本当だとすれば、この語らいの翌日に劉吶鴎は李香蘭に電話をして、会う約束を取り付けたことになる。
劉吶鴎は、なぜそのことを松崎に話さなかったのか?
言うまでもなく、李香蘭は当時、東宝と独占契約を結んでいたドル箱スターだった。
劉吶鴎と松崎のつきあいの様子から言って、劉吶鴎が東宝から出向している松崎に黙ったまま李香蘭に会おうとしたとは、どうしても思えない。


殺されてしまった劉吶鴎を語る語り口も、山口淑子の場合は冷淡すぎる感じがして仕方がない。

つまりは李香蘭を蔑視してる?・・ wang

朝日新聞週刊朝日での、山口淑子インタビュー記事がしばらく話題になっていた。
そこで僕は、これらの記事を詳細に読んで分析してみた。
そして得た結論は、李香蘭はバカにされている、ということだ。


李香蘭は、人気絶頂のときも実は、日本のマスコミではかなりバカにされている。
満人なのに頭がいい、満人なのに美人だ、という論調が多かった。


そしていま、18年間も参議院議員をつとめた山口淑子を語る言葉は、相変わらずその美貌についてだ。
これは政治家としての長いキャリアを持つ彼女をバカにしていないだろうか?


もし彼女の政治家のキャリアを尊重するなら、やはりそれにふさわしい話題を持ち出すべきだ。
そして山口淑子の方も、政治家ならではの鋭い切り口を見せるべきだ。


奉天放送局を接収した日本軍に抜擢されて、ラジオ歌手としてうたった「国民歌謡」が果たした役割は何だったか?
彼女の養父となった「親日派」の二人の中国人は、その後どんな運命をたどったか?
当時「親日派」が果たした役割は何だったのか?
彼女が語らなければならないことは、まだまだたくさんある。


山口淑子が自伝を出してからすでに20年。
それなのに山口淑子は、「支那の夜」について訊かれれば自伝と同じ言葉を繰り返すだけだ。
子供じゃあるまいし、「自分の無知が口惜しくて3日3晩泣きました」なんて。


そんなのを許していたのは、日本のマスコミにも大いに責任があると思う。

山口淑子の大いなる矛盾・・・ ken

劇団四季公演の「ミュージカル李香蘭」がまもなく楽日だそうだ。
それにからんでだろうか、週刊朝日の連載記事「昭和からの遺言」に「山口淑子 元女優・李香蘭」のインタビュー記事が掲載された。


週刊朝日なぞ、ついぞ読んだことがなかったが、新聞広告で見たこの記事のサブタイトルにひかれて目を通した。
サブタイトルには「李香蘭として過ごした無知と愚かさが口惜しい」とある。しかしながら、記事の内容は大違いだった。山口淑子は、相変わらずの言い訳を繰り返すのみだ。
いわく「だまされて満映に行き、映画に出てしまった」 「『支那の夜』は86年頃に初めて見た。こんな映画に出ていたのかと口惜しくて3日3晩泣きました」


そのほかは4頁にわたって、ほぼ自慢話に終始している。女優というものは、かくも自己顕示欲が強いものかと、あらためて敬服。
しかしながら、彼女が文面どおりに大人気女優で「骨のある」政治家であるならば、もう少しつっこんで聞いてくれなくては、と取材・構成担当記者に恨み言も言いたくなる。そのひとつを、あげておきたい。


冒頭部分にこんな記述がある。山口淑子は、戦後間もない48年頃に、長崎の巡業先で特攻隊生き残りの少年たちに怒鳴り込まれた。楽屋の畳に短刀を突き刺してすごむ彼らに、彼女はベランメエ口調で怒鳴り返した。彼らは驚いて彼女の前にひれ伏し、その後彼女の親衛隊になった。(ホントカネエ??・・)
少年たちは「戦争で受けた心の傷に苦しんでいるのだなと思いました」と山口淑子は語っている。


その同じ記事の末尾で山口淑子は、昭和と聞いてぱっと浮かぶのは、議員団として参列した昭和天皇の葬儀だと語っている。
棺が近づいてくると、古式ゆかしい宮内庁の祭官たちの砂利を踏む音が原始の太鼓のリズムのように聞こえ、まるですばらしい音楽のようで、「あとは無の心境でした」と。


ちょっ、ちょっと待った山口さん。
「お国のために」という言葉に動かされて満映女優になってしまったことが口惜しい、と言ったばかりじゃないか? 天皇のために死ぬことだけを教えられてきた特攻隊帰りの少年に、同情してみせたばかりじゃないか? それなのに、天皇を見送りつつ、すばらしい音楽を聴くような心地になったというのか? それだけか?? 


やはりあらためて、山口淑子にきちんと答えてほしいと思った。
李香蘭の恋人』(田村志津枝著)で、著者が最後に山口さんあてに出している質問に対してだ。


1940年9月、李香蘭はどんな用事で台湾人・劉吶鴎に会おうとしたのか。
会う約束だったその時間に、劉吶鴎は上海の目抜きどおりのレストランで射殺された。
李香蘭は、彼が殺されたことも知らずに待っていたという。これは誰でもない、山口淑子自身が自分の口で話したことだ。まさに劉吶鴎が暗殺されたあの時間に、事件現場から2キロと離れていない場所で、李香蘭が劉吶鴎を待っていたなどとは、たぶん李香蘭以外は誰も知らない。


「お国のために」と駆り立てられて、中国人のフリをしていた日本人・李香蘭は、生き延びていまもこんな話をしている。
同じように「お国のために」と駆り立てられて日本の映画会社の仕事をしていた劉吶鴎は、植民地出身故に日本国籍を持たされた台湾人だった。
彼がなにゆえに殺されたのか。そのときの上海の状況はどんなだったのか。
待ち合わせをしていたという山口淑子の話が本当だとするなら、いまやそれを知っているのは、山口淑子ひとりだけなのだ。その詳細が分かれば、「お国のために」の言葉に踊らされた李香蘭と劉吶鴎が、生死を分けられた理由も見えてくるのではないだろうか。

かっちりと固めた髪型・・・ yuri

ゴールデンウィークとはいえ、あまり休みには縁がない。
仕事の性格上、こういうことはすでにあきらめの境地です。
でも、気分が少しゆったりしているらしくて、珍しく日本映画専門チャンネルなど見ました。
そしたら、美男俳優シリーズ、池部良のコーナーで「暁の脱走」をやっていた。


「暁の脱走」は1950年東宝作品。谷口千吉監督、池部良主演、山口淑子が出演しています。
原作は田村泰次郎の「春婦伝」で、朝鮮人従軍慰安婦をあつかったものだ。
だが映画「暁の脱走」では、従軍慰安婦は出てこず、山口淑子らは軍を慰問する歌手の役だ。


舞台は戦争末期の1945年、中国の華中である。
慰問団の歌手たちは、中国側の攻勢によって動けなくなり、慰問先の基地で戦況好転を待つ。
その間に、山口淑子扮する歌手の春美と、池部良扮する三上上等兵が恋仲になる。
軍規に反して罰せられることになった三上は、春美に励まされて中国側に逃亡を図る。
三上の戦友らは三上を逃そうと図るのだが、結局は二人は、広い平原で機銃掃射により死ぬ。


この映画は連合国占領下で、検閲を受けながら制作された。
だから、非現実的なまでに、反軍国主義ヒューマニズムなどが強調されたのだろう。
春美はなぜか、三上上等兵を一貫して「三上、三上」と呼び捨てにし、彼を救おうとし、あからさまに彼を誘惑する。


この映画は、主張が主張なだけに褒めやすくもあるのだろう。
軍国主義女優・李香蘭が、反軍国主義山口淑子へと転身し、「官能的な美しさ」を遺憾なく発揮した、などと讃える評論家は少なくない。


しかしなあ。私は正直、どっちらけ!!でした。
その最たるシーンは、終盤で手榴弾で自殺しようとする三上を、春美が制止するところ。
榴弾が爆発するかと(結局は不発だったが)、三上をかばいつつ地面に倒れて身を伏せた春美。
春美の髪が、がっちりと固められていて、倒れ伏しても、もがいても、起きあがっても、同じ形でびくともしない。
笑いましたねえ。


名前や作品のテーマは変われど、変わらぬのは、ひたすらエキセントリックな山口淑子の大根ぶり。
官能的、とか、敏捷な獣のようにエロティック、とかいう讃辞は、男しか口にしないのではないかしら。
女から見ると、李香蘭山口淑子も、ステレオタイプの男うけする演技に終始しているとしか思えない。


しみじみした、女にも官能的と思わせるような名演技は、彼女には無縁のものだった。
その理由も、あげてみたいけれど、またあとで。

彼女は果たして「ただの女学生」か?・・・ huang

「ミュージカル李香蘭」再演にあたって、朝日新聞夕刊で山口淑子が語っている記事について、私の疑問を書きます。
このことは、田村志津枝さんの著書「李香蘭の恋人」でも、あまり明確にはかかれていません。


朝日新聞で、山口淑子はつぎのように語っています。
ーーー36年、私は奉天(現・瀋陽)の親元を離れ、北京の、父の友人の家で暮らし、「潘淑華」の名前で女学校に通っていました。
彼女は日本人であることを隠し、誘われて学生たちの抗日集会に参加した、と彼女は語っています。


日本人であることを隠した理由を、彼女は、次のように語っています。
ーーー抗日運動が激しくなっている中で、日本人と知れれば、身に危険がありました。
けれど私が気になるのは、「果たして彼女は、日本人であることを除けば普通の女学生だったのか?」という点です。


この3年ほど前から、彼女はラジオ歌手・李香蘭として、満州では知られていました。
満州国設立後、日本軍は奉天放送局を接収し、満州国宣伝のための放送を始めました。
国民歌謡という歌を放送して、五族協和、王道楽土のスローガンを満州に広めようとしたのです。
その国民歌謡をうたうための歌手として、李香蘭は起用され、北京の女学校へ通うようになっても、帰省のたびに録音をして、彼女の歌声は全満州で放送されていたと言います。
だから彼女は、軍部とも頻繁に接触はあったはずです。
現に父親の友人である諜報関係の軍人が北京駐在になると、小遣いをねだりに行ったりもしたと、彼女自身が自伝に書いています。
それが縁で、彼女は満映から白羽の矢を立てられ、映画スター李香蘭への道を歩み始めるのです。


16歳の幼い女学生が、抗日派の中国人学生とつきあう顔と、百戦錬磨の諜報関係の仕事をする軍人とつきあう顔とを、賢く決然と使い分けられるでしょうか?
もしかしたら、抗日派の動きを知らぬ間に日本軍部に伝えてしまったりはしなかったでしょうか?
それよりももっと不思議なのは、彼女自身がこの点についての悩みを、まるで語っていないことです。
彼女は単に、ちょっとした都合で中国人のフリをしていた日本人ではない。
同級生のしらないところで、すでに日本の軍部のお偉方と接触をもってしまっていた、女学生としては珍しい立場だったのです。


このことをこそ、私は山口淑子に訊いてみたい。あなたは同級生に大きなウソをついていたことに、良心の呵責を覚えませんでしたか? その呵責をどう乗り越えて、今まで生きてきましたか? と。
だって、日本軍の侵入によって、中国人家庭では日本支持側と不支持側とに分裂した例はありますから。そして良心の呵責に耐えかねて悲劇的な最期を迎えた人も少なくはないですから。